▼第十三弾: 映画 2003/0705

−注意−  以下の文章は映画『めぐりあう時間たち(原題“The Hours”)』のストーリーに触れています。まっさらな気持ちで映画に触れたい方には“回れ右”をオススメいたします。感想とは私的なものでしかありませんが、ネットワーク上に放たれた瞬間から一種の制約に変化することもあるでしょうから。自由は尊重されて然るべきものです。

 では、始めることにいたしましょう。

 この映画は、ありきたりな言葉だが「人生」についての物語だ。「人生」という二文字。人の生。人が生きる。「人が生きる」とは、どういうことなのだろう?呼吸していることが「生きる」ことなのか。そうかもしれない。ただ、それは「生」であって、「人の生」ではない。貴方が「生きている」と実感できる瞬間を思い浮かべてほしいのだが、その実感を支える“何か”があるのではないだろうか。結論、私がこの映画から得た結論を先に言ってしまおう。「人が生きる」とは「自分であること」だ。「自分」でなければ「死んでいる」。そう、ジュリアン・ムーア演じるローラのように。  

 「人は常に“自分”でありつづけることなどできるのだろうか」という疑問を抱く方も多いかもしれない。人生の何時如何なる瞬間においても“「自分」であること”はできないと、私も思う。「自分」から目をそらし、雑事に気を紛らわせることもあるだろう。「自分」など見たくないという人もあるかもしれない。「自分」に正面から向き合うことは、「自分」を疑い、「自分」に問いかけ、「自分」に没頭し、時には周囲を犠牲にすることでもあるからだ。それは、痛みを伴う時間といえる。更には、「自分」への直視を自ら避けるだけでなく、「自分」という固有性を一般化し、制度に回収しようとする社会的圧力も必然的にある。ヴァージニアの固有性を奪う「精神病」というカテゴリー。ローラの固有性を奪う「主婦」というカテゴリー。クラリッサの固有性を奪う「同性愛者」というカテゴリー。そういった単純なカテゴリーが彼女たちに「自分」を見失わせる一方、失われかけた「自分」への焦燥感を煽り立てる。寄せては返す波のように、人は「自分」に近寄っては離れ、離れては近づく。その繰り返しなのだ。人は「自分」との微妙な距離、「自分」とのバランスの中に生きている。

 バランス。そのバランスを保つものとは一体…?「あのときの二人ほど、幸福な二人はいなかった」。精神を病みつつあるヴァージニアとエイズに蝕まれるリチャード。二人は異なる時代(とき)と場所で言う。「あのとき」。その時間が「自分」であることを肯定する、あるいは肯定された時間。どんなに短い瞬間でもいい。その瞬間さえあれば、人は「その先の時」を幸福なものとすることができる。なぜなら、その一瞬に時間は収斂され(過去は現在に淘汰されるわけではなく、あるのは「現在」のみ)、一瞬は“期限付きの永続性”を得るからだ。「幸福な時間」が永続性を帯びたとき、人はその時間に立ち返ることができる。そして、その時間に浸ることで「自分」を確認することができる。人はその一瞬を支えに、「自分」を支え、生きつづけることができる。むしろ、こう言うべきだろう。人は「自分」を支えるために「幸福な瞬間」が必要なのではなく、「幸福な瞬間」があるからこそ「自分」を支えることができる。  

 貴方はこう言うかもしれない。「なぜ、“幸福な時間(瞬間)”は「自分」を支えてくれるのでしょうか」。  それにはこう答えよう。「“幸福”とは固有性そのものなのです」。
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 だからこそ悲劇的なのは、そうした支えになるような瞬間が訪れなかったときなのだ。人生が平和で他人から見ると幸福そうであったとしても、それは当人にとっては幸福とはいえない。カテゴリーとしての幸福、一般的な幸福。だが、「幸福」とは本来的に固有なもの。その固有の「幸福な時間」なくして、人は「生きる」ことはできない。しかし、そうだとすると、その「幸福な時間」が奪われる瞬間ほど、苦痛な瞬間もない。幸福な瞬間をかき消そうとする“声”。その声から幸福な瞬間を守るため、人は死を選ぶ。“死”は必ずしも悲劇なわけではない。目的としての“死”は悲劇であるが、手段としての“死”は(異論はあると思うが)肯定される部分もあると思う。一体誰が「自分」であり続けるために死を選んだ人間を非難できるというのか。周囲が悲しむ?自死は迷惑がかかる?ふざけるな、と言いたい。それは「貴方」の「人生」ではない。

 この物語に登場する三人の女性。ヴァージニア、ローラ、クラリッサ。彼女たちに共通するのは、「(自己の生を)生きている」という感覚を喪失している点だ。生活の「静寂」。他人はそれを平穏な生活と呼ぶかもしれない。しかし、彼女たちはその「静寂」を嫌う。なぜなら、「静寂」は偽りの静寂でしかなく、彼女たちの内には突風が渦巻いている。「静寂」の中から聞こえてくるのは、己の内なる声。その声が自分を急き立てる。「静寂」を掻き消すために、そして何より、内なる声を掻き消すために、それぞれがそれぞれに喧騒を求める。

 三人はそれぞれに“ある選択”をする。詳しくは述べないが、簡単に言うと、「流れる」「捨てる」「留まる」という言葉に集約される。それぞれにそれぞれが何かを失っているし、その選択の結果、誰かが涙を流している。ただ、重要だと思うのは、時代を経るごとに悲劇の色は淡く、薄まっている点だ。自由意志は、何時如何なるとき、あるいは場所を選ばず、あるいは限界を知らずに、自由なわけではない。必ず時代(とき)の制約を受ける。その制約を受けた「時間」の中で、人は振る舞うしかない。過去を現在に置き換え、「現在の時間」から最善の選択を模索してみても、それには意味がないのだ。「時代(とき)の制約」が違うのだから。人は、その時その時に最善と思える選択をするしかない。彼女たちのそれぞれの選択。ヴァージニアは言う。「あるがままを受け入れ、そして立ち去る」、と。ローラはある人に向かって言う。「あの生活は死だった」、そして、「あなたは幸運な人だ」、と。たとえ、その歩みが少しずつであったとしても、時代は確実に良くなっている。そう確信を抱くことが、先人たちへの敬意であり、選択には最大の敬意を払わなければならない。現代を生きる我々がすべきこと。それは、「自分」に配慮し、あるがままを感謝し、夜の訪れと共に眠ること。それは少しだけ、祈りに似ている。「人生」への。

 ヴァージニアの“精神”は、「川」の流れに乗っていつまでも生き続ける。